文書と記憶、信用できるのはどっち?

  萩生田内閣官房副長官の話が書かれていた文部科学省の役人が作成した文書の信憑性が国政での話題になった。この文書につき松野大臣は「備忘録としての個人メモだ。政府高官の発言は正確性を欠く」と発言した。

 しかし、備忘録は忘却に備えるための記録文書だ。「備忘録」だから「個人メモ」だから正確性を欠くというのは、実は全然理由になっていない。

 私も弁護士業務で、文書の信用性を考えることがよくある。その場合、文書の作目的は何か?〇誰が作成したのか?〇記録文書である場合、いつ記録したのかどうか?などを検証する。

 今回の文科省のメモは、「備忘録」でから、歴史的事実をそれと同時進行で記載したということは推定できる。そうであれば内容の正確性は高いはずだ。また、文字通り「備忘」が目的だとしたら、文部科学省というお役所のために記録を遺しているはずで、特別な思い込みが入る余地はない。しかも作成者は役人だから、その記録することの能力についてはまったく問題がないはずだ。

  もちろん、匿名のメモだから、文書の体裁のみで信用性を判断することはしてはならない。裁判であれば、当然メモの信用性についてメモの作成者を呼び出して尋問をすることが必要だ。国会であれば、証人喚問、参考人質疑ということになるはずだ。 何もしないということは、文書を破棄していることに等しいほどの愚行である。

 ある政治j家は、「官僚は文書を遺すのが仕事」と言い切った。たしかにその通り。行政の目的は法に基づいて公正公平な行政を実施することに尽きる。これを後から検証するためにはその痕跡を遺すことが必要不可欠だ

 山本地方創生担当大臣は「記録より自分の記憶のほうが信用性がある」と言っていた。しかし、私たちは2,3日前のことですらすぐに忘れてしまう。記憶ほど頼りにならないものはない。だからこそ事実を文書で遺し、忘れたことを文書で思い起こす。

  文書を破棄することは、政治の私物化の論理的な帰結である。

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このページは、馬場秀幸が2017年8月12日 14:08に書いたブログ記事です。

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