2月8日 高田世界館で「泣く子はいねぇが」を観る その2
職業柄、夫婦の別れ話をたくさん聞いてきたし、現場も見てきました。
どんな場面でもね、「愛想が尽きた」っていう時があるんです(ちなみにいつも「あいそが尽きた」なんて言ってますけれど、「あいそ」は愛想であり、愛情、思いやり、ステキな言葉ですよね。そしてこれが尽きちゃうんだから残酷だ)。
どうして、愛想尽かされる前にそれに気付かないんだ、と突っ込みを入れたいときがあります。もちろん、そんなことをお客さんに言ったら大変なことになりますから言いませんけどね。
「泣く子はいねぇが」の時もそうでした。主人公の青年に言いたかった、赤ん坊ができたときに仕事を見つけておけよ、なまはげの行事に言ってもいいが酒なんて飲んでる場合かよってね。奥さんが愛想を尽かすのも仕方ない。
そして、「泣く子はいねぇが」の主人公は、愛想をつかされてもまた修復を試みようとする。甘いですよね。夫婦の一方が愛想を尽かすにはそれなりの重たい理由があります。できることだったら、結婚を続けたほうが楽だし、子どもにだっていいだろう、それでも我慢できなくなったから、愛想尽きて離婚に向けて踏み出すわけです。そういう重い決断をしているということが分かっていないから、ついつい甘いなあと思うんです。
(もちろん、私自身がどうかと言われたら、失敗ばかりの人生でしたけれどね)。