8月19日 「認知症」や「徘徊」について
赤旗におもしろい記事が載っていた。
認知症の父親が鉄道事故で死亡したが、その父親が線路に入り込んだことで電車が遅れてしまったとして、JR東海から監督責任があるとして720万円の損害賠償の請求をされた高井隆一さんの話(赤旗2021年8月21日付)。
父親は外出願望が強かった。門や扉、フェンスにカギをかけても乗り越えようとした。ただ、むやみに「徘徊」していたというわけではない、という。
「妻が『うちのおじいさんは徘徊なんかしていない』と言うんです。右に左にうろうろ歩くのではなく、昔勤めていた農協へ、かつて住んでいた実家の方向をめざして歩いていた」
この話で思い出したことがあります。介護の専門家が「自分が出してしまった排泄物を手につかんだりするのは、何とか自分で後始末をしたいと考えているからだ」と話されたことがありました。判断能力が衰えていくとしてもまったく人間としての気持ちや過去の記憶がなくなってしまうわけではない。外に出てしまう、弄便をしてしまう、介護をする側からは困ったことでしかなく、ついつい怒ったりして行動をやめさせようとします。しかし、それをした側の気持ちを考えてみれば、少し違った対応もあるのではないか。「認知症」「徘徊」という言葉をつけることでわかった気になってはいけないのだと思います。