9月4日 策士、策におぼれる
突然の退陣についての識者の感想。
「頭に浮かんだのは、『策士、策におぼれる』ということですね。・・・一番得意なはずの人事で行き詰ったんじゃないかと思います」とは江川紹子さん(朝日新聞210904)。東京新聞の望月衣塑子記者も、「自らの策に溺れた感がありました」と同じ意見。「菅さんの語る言葉には、市民を思う魂が込められておらず、これほど言葉に重みがない政治家はいなかった」と手厳しい(AERAdot.)。
政治学者の御厨貴さん、「通常、政治家はその地位が上がれば、見えてくる風景も変わり、おのずと言動もそれに伴って変わっていく」、しかし、菅首相は変わらなかった。「首相になりきれなかったまま1年が経過しようとしている」「厳しい言い方ですが、この1年、日本は首相が空席だったようなものです」(朝日210904)。
私としては、菅が官房長官時代に翁長沖縄県知事に発した言葉が忘れない。「私は戦後生まれなものですから、歴史を持ち出されても困りますよ」。しかし、個人としての人も、国民としての人も、歴史的な「いま」を生きている。過去や死者の歴史をひきずっている。どうしていまの自分があるのか。歴史を知らなければ相手との対話すらできない。菅首相の発言一般にその重みが欠けるのは、私たちの背後にあるものを知らないし、学ぼうともしなかったからだろうと思われる。だから、国民との対話もできない、頼るのは力での支配、しかし、民心が離れれば、その力もなくなる。結局、策士は策に溺れて道を失ったというわけだ(去年の9月20日にも同じようなことを書きました)。