雪の街だより 高田在住の弁護士馬場秀幸のブログです

「身の丈」発言は受験生への「エール」だったのか?

2019.11.09

「身の丈」発言についてはまったく違った評価がある。
 まずは、萩生田の発言を引用する。
「裕福な家庭の子が回数受けて、ウオーミングアップができるみたいなことは、もしかしたらあるかもしれない」「そこは、自分の身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで勝負して頑張ってもらえば。できるだけ近くに会場を作れるように今、業界や団体の皆さんにはお願いします」

 萩生田は、この発言について、国会で「エールのつもりだった」と釈明している。
 評論家の櫻井よしこもそれに沿う発言をする。萩生田は、政界入りに必要な地盤・看板・鞄がなくとも、その都度与えられた立場で「身の丈に合った」ベストを尽くしてきた。「そのような自身の体験があるからこそ、生徒達を励ましたかったのではないか。・・・なぜなら頑張ることで道は開けるのだから」(櫻井よしこ「萩生田氏の心優しい本質を見よ」(週刊新潮2019年11月14日号))。

 他方、松岡亮二早稲田大学准教授は、その発言が教育格差の実態から批判する。萩生田の発言の背景んいは、「教育格差」とは、本人の志・能力・努力によって乗り越えられる程度のものだ、という認識があったのではないか。しかし、それはデータが示す実態とは異なる。「私の研究では、中学1年で子どもが大学に進学することを期待する割合は両親が非大卒だと23%、一方の親が大卒だと41%、両親が大卒だと60%と明らかな差があり、親が大卒であるほど、子の学習時間も長い」「社会経済的に恵まれない家庭の子どもたちは、ある時点で勉強を諦める傾向もあります」「大学入試共通テストの導入は、現存する格差の拡大を後押しすると考えられます。テストの仕組みが複雑で選択肢もあまりにおおいため、予備校などに相談し、膨大な情報を親と共に消化できる家庭の制度ほど有利になるでしょう」(松岡亮二「「教育格差」のデータ無視」(朝日新聞2019年11月6日))。
 松岡は、問題の根本が「教育改革」がデータの蓄積や分析なしに「これからのグローバル時代だ」といった理念で進められてきたことだ、と指摘する。
 
 萩生田の発言がきっかになり、とりあえず試験制度が中止され、そればかりでなくこれからの教育の在り方にまで議論が広がっていく。もっともっと論争が深まっていくことを期待したい。

馬場秀幸  カテゴリー:その他